正義・善 

 少なくとも,絶対の「正義」とか,絶対の「善」を主張することには,「恥ずかしさ」がともなうことになります。あるいは,「正義」や「善」,「大義名分」をふりかざして,同じメンバーを排除したり,切り捨てることには,ためらいを覚えるものです。今は,「正義」派に属していても,それはほんの偶然のはたらきにしかすぎないことであり,立場が変われが,たちまち反対勢力につく,といった,危うい存在が「凡夫」なのです。それを思うと,「正義」や「名分」を単純にふりかざすのは,「恥ずかしい」ことですし,反対派に対しても,単純に切り捨てとはゆかないことになるでしょう。
 また,「正義」や「善」,「大義名分」も,内実をよく見ると,しばしば,力を持っている人々の立場を代弁しているだけだ,という場合も少なくないのです。アメリカのいう「正義」には,うんざりしている人も多いのではありませんか。あるいは,日本の最高裁判所の判断が,しばしば政治的体制に従属しがちであることも,たびたび経験していることです。
 いずれにせよ,絶対の「正義」や「善」が主張されるところでは,排除が強く働きます。しかし,もし,人はすべて「凡夫」であることにおいて平等だという点が重視されるならば,排除よりは対話が尊重されることになるでしょう。