人間集団の規模

 たとえば,シューマッハーの弟子たちはこんな例を出して説明します。
「火に包まれているビルの窓から女性が助けてくれと叫んでいる。このとき,通りかかった人間が3人ぐらいなら,人はただちに行動する。おまえは電話をしろ,おれは飛び込む,まだ間に合う,となる。それが30人になると,だれかが助けてくれると思って全員が傍観者になってしまう。さらに群衆が300人に膨らむと,あの人が飛び降りて死なないかな,といって見物するようになる。どんどん道徳が低下してしまう。」
 この指摘は,人間をはじめ生き物や集団を考える上で,とても大きな示唆を含んでいます。
 日本でも,大きな会社は必ず,「大企業病」になります。人間は30人ぐらいの規模だと心を合わせてよく働きますが,それよりも大規模なると,内部摩擦が起こり,互いのストレスが高まっていきます。まして千人にもなると,ルールを作らなければ集団は維持できません。
 その結果,会社のなかには裁判所や刑務所ができてしまいます。辺地の支店に左遷されたり,「窓際族」に追いやられたりします。どうしても,ルールに反すればこうなるというみせしめのポストが必要になってきます。
 結局,人間が大勢集まると,管理社会が出現し自由もモラルも低下して,生き生きとした人間活動ができなくなるのです。人間は一人では生きられませんから集団生活をするのですが,そうなると,自分のいのちも自分だけのものではなくなります。

 景気予測も愚問のひとつ

 インド思想の偉いところは,世の中には「愚問」が存在する,愚問は立てるな,答えるなという点で,これは科学的探求心美化の思想とは違っています。愚問を立てれば立てるほど精神が混濁する。せっかくの頭脳が横の方へいってしまう。もっと賢い問題を考えなさい,ということだと思います。(略)
 私の今の仕事でいえば,景気はいつよくなるか,金利はいつ上がるか,アメリカの本当のねらいは何かなどの質問を受けるが,多くの場合私は答えない。
「景気がよくなったって悪くなったって,あなたの商売にはほとんど関係ないだろう。毎日,新聞が書きたてるから知りたくなっただけだろうが,そんなに大きな変化はないし,気にしなくてもいい問題だ」といってやります。
 わからないから答えないのですが,多くの解説者はわからなくても答えている。毒矢のたとえ話はいいですね。
 経済企画庁は,いつの頃からか景気予測を仕事にしたが,その上,いつの間にか景気好転請負業までやるようになった。愚問に答えすぎた悲劇でしょう。(日下公人

 宗教と破壊 

 宗教のコアを安易に語ることは,危険をともないます。なぜなら,宗教には既存の社会常識に挑みかかり,それを根本から破壊しようとする要素があるからです。誤解されて当たり前なのです。親鸞の言葉を集めた『歎異抄』も長く禁書あつかいにされていました。
 振り返ってみれば,偉大な思想家とか政治家というのは,みな破壊力をもった人たちです。

 蜜蜂の目的

 太陽やエーテルの一つ一つの原子が,それ自体が完成した一つの球体でありながら,同時に人間の理解を超えた巨大な全体の一原子を構成しているにすぎぬように,一人一人の人間も自分自身の中に自分の目的をもっているが,同時にそれをもっているのは,人間の理解を超えた全体の目的に奉仕するためなのである。
 花にとまっていた蜜蜂がひとりの子どもを刺した。するとその子供は蜜蜂を恐がって,蜜蜂の目的は人を刺すことだという。詩人は花の杯をなめている蜜蜂を愛でて,蜜蜂の目的は花の芳香を吸うことだと言う。蜜蜂飼いは,蜜蜂が花粉と甘い汁を集めて,巣に運んでくることを指摘して,蜜蜂の目的は密を集めることだと言う。別な蜜蜂飼いは蜜蜂の群れをもっとよく研究して,蜜蜂が花粉と汁を運んでくるのは子蜂を育てたり,女王蜂に子を孵化させたりするためだ,と言い,蜜蜂の目的は種の保存にあると言う。植物学者は,蜜蜂が雌雄異株の花の花粉をつけてめしべへ飛んでゆき,受精させることを指摘して,そこに蜜蜂の目的を見る。別な植物学者は,植物の転移を観察して,蜜蜂がこの転移に協力していることを見る,そこでこの新しい観察者は,そこに蜜蜂の目的があると言うことができるわけである。しかし蜜蜂の究極の目的は,人間の知恵が見いだすことができるような,それらいずれの目的によっても尽くされるわけではない。これらの目的の発見の段階を人間の知恵がのぼってゆくにつれて,人間には窮極の目的を究めえないことがいよいよ明らかになってゆくのである。
 人間に究めうるのは,他の生活現象に対する蜜蜂の生活の適応の観察だけである。歴史上の人物と諸民族の目的についても同じことが言われねばならぬ。

 為政者 

 どんな為政者でも,嵐のない平和な時代には,ひとえに自分の努力によって治下の全人民が動いているものと思い,自分がいなければというこの意識の中に,自分の苦労と努力に対する最大の報酬を感じているものである。確かに,歴史の海が静かであるあいだは,為政者という支配者は,自分の破れ小舟に乗り,人民の大船を棹で押しながら,自分も動いているのだから,自分が棹で押している大船が,自分の努力で動いているように思い込むのも無理はない。ところがひとたび嵐が起こり,海が荒れ,大船がひとりで動き出すと,もうこのような錯覚は起こりえない。大船はその巨大な自分の力で進み出し,棹は動いてゆく大船にとどかず,支配者はとたんに力の源泉である命令者の地位から,芥子粒のような無益な弱い人間に転落してしまうのである。
 ラストプチンはそれを感じていた,そしてそれが彼をいらだたせたのだった。

 断頭台

 断頭台は,事実,そこにできあがって立っているのを見ると,何か幻覚をおこさせる。断頭台を目撃しない限り,人は死刑についてある程度無関心でいられるし,その可否を言わずにすむかもしれない。ところが,断頭台を一つでも見ると,心の動揺が激しく,それに対して賛否いずれかを決めなければならない。ある者はド・メーストルのように賛美し,他の者はベッカリアのように憎悪した。断頭台は法律の具体化であり,「刑罰」と呼ばれるものであり,中立ではなく,人に中立を許さない。それを見るものは,最も神秘な戦慄に身を震わせる。あらゆる社会問題は,この首斬り刀のまわりに,疑問を投げかける。断頭台は木組みではない。機会ではない。断頭台は木と鉄と綱で作られた無気力な装置ではない。それは何か陰惨な自発的な力を持っている生き物のようである。この木組みが見えたり,この機械が聞いたり,この装置がわかったり,この木と鉄と綱とが望んだりするかのようである。断頭台を目の前にして,魂は恐ろしい夢想に陥るが,そこでは断頭台が恐ろしいものとして,それが行うものと一緒になって,現れる。断頭台は死刑執行人の共犯者であり,それはむさぼり食らい,肉を食べ,血をすする。断頭台は裁判官と大工とが作った一種の怪物で,それが与えたすべての死からできた,一種の恐ろしい生命を生きているみたいな化け物である。
 だから,その印象は恐ろしく,また深刻だった。刑の執行の翌日も,司教はうちひしがれていた。死の瞬間の激しいまでの穏やかさは消えてしまった。社会正義の幻が彼につきまとった。いったんははればれとした満足をもって,どんな仕事からでも戻ってきた彼が,自らを責めているふうであった。ときどき,独り言を言って,陰鬱な独白を低い声でつぶやいていた。妹がある版,聞いてしるしたものに,次のようなものがある。
「あれがあんなに恐ろしいとは思わなかった。人間の掟に気がつかないほど,神の掟に夢中になるのは間違っている。死は神だけに属している。どんな権利があって,人間はこの未知のものに手を触れるのだろうか?」