戦争を知っていてよかった

 昭和天皇のご不例が長引いていた頃,私は新聞に『天上の青』という連続殺人の小説を書いていた。大久保清という連続殺人犯の事件をモデルにして,「あらゆる人の中に神がいる」という証明を試みようとしていたのである。事件が起きてから十七年も経ってしまっていたし,細部はすべて私の創作であった。
 すると一人の老人から手紙が来て,小説家ともあろうものが,このような不道徳な筋を書くのはけしからん,と書いてあった。後から考えると,これは意外と戦後の日本人の精神的な風土をよく表していたものかもしれない。つまり今の日本はいい人間だけが生きているべきで,自分もその一人だ,と声をそろえて大合唱する空気の反映である。
 
 「地球にやさしい」のがいい,と言い,一方で「ふれあい」ばやりだが(ふれあいとはなんとワイセツで,薄気味悪い言葉だろう),この二つの感覚は矛盾する。地球環境を最もはっきりと自然のままに保つには,人間がいないことが一番有効だろう。現代の人たちは,皆哲学者みたいで,一方でプライバシーを要求する,と言うかと思うと,情報は開示せよ,と言う。私にはこういう高級な矛盾をどう解決させるのか全く分からない。

 日本人は「自国のために」という観念も言葉も許さない不思議な国民である。こういう自虐的な国家は世界でも珍しいから,社会学者の研究対象にはなるだろう。
 以前から書いていることだが,「愛国心」というものは,大して崇高なものでもなく,唾棄すべきものでもない,と私はかねがね思っている。自分が生きるための権利,安全,空間,物資,などを確保することが愛国心だから,大して立派なことでもなく,それを持つのはいけないこと,などという悠長な気分になってもいられない。愛国心を持って,自分の生きる場を確保することは,私に言わせれば鍋釜並の必需品を確保しようという情熱と同じなのである。
 私はカトリック教徒だから,別に神道に凝り固まった昔風の愛国者には成り得ないのだが,それでも自然に「自国のために」なることはしようと考えている。なぜなら,日本が成り立たない限り,決定的な不幸が私の同世代,子供や孫の世代を襲うことははっきりしているのだし,日本という国が安定して成り立っていてこそ,他国を救うこともできるのである。

 化kじつ,朝日新聞に掲載された埼玉県寄居町の七十一歳の男性の投書などはまさにその典型だが,この人は宅間が被害者への謝罪の言葉など全くなかったことにふれ「それは死刑執行前でも変わらなかったと伝えられています。その意味では,犯した罪に向き合わないで人生を精算してしまったことになります」と書いている。
 この人の言葉には二つの問題がある。
 第一はこうした殺人犯が,改悛して当然だという甘さである。
 第二は改悛したら,それを表すのが当然という幼い見方である。
 第一の点に戻れば,このような不可思議な犯罪を犯した人が,そんなに簡単に反省などするものではないだろう。
(中略)
 しかし宅間の反応は余裕なく激烈だ。そういう特異な人の行動の内心は,外部の者が分からなくて当然だと見る方が自然なのではないだろうか。「犯した罪を反省する」などというまっとうなことをすると期待する方が甘いだろう。
 第二の点に戻れば,たとえ反省しても,宅間のような人物は,それを他者に言うかどうかは分からない。また被害者の方では,反省のないのを怒っているが,それでは反省して「ごめんなさい」と加害者が言えば心は癒されるのだろうか。私が親だったら,恐らくそうではないだろう。
 この七十一歳の投書者は言う。「少しでも更正させるための人間教育を行う責任が国にはあるのではないでしょうか。早すぎた刑の執行は,法を犯した者に反省と自覚を求める国側の努力を放棄したもののように思えてなりません」
 これは一見,良識ある考えのように見えて実は投書向きの八方美人的考え方である。国が一人の人間の精神の更正を任されても,そんなことができるわけがない。そして,またそのためにどれだけの時間があればできるか,と言う目安があるわけでもない。さらに,誰がどのような手順を踏めば,その人物には効果があるかも分からない。