悩む力

 「自分の城」と築こうとするものはかならず破滅する。
 これは私もそうだったのでよく分かるのですが,だれもが自分の城を頑強にして,塀も高くしていけば,自分というものが立てられると思うのではないでしょうか。守れると思ってしまうのではないでしょうか。あるいは強くなれるような気がするのではないでしょうか。しかし,それは誤解で,自分の城だけを作ろうとしても,自分は立てられないのです。
 その理由を究極的にいえば,自我というものは他者との関係の中でしか成立しないからです。すなわち,人とのつながりの中でしか,「私」というものはありえないのです。

科学は何も教えてくれない
 われわれはみな,自分たちは未開の社会よりはるかに進歩していて,アメリカの先住民などよりはるかに自分の生活についてよく知っていると思っている。しかし,それは間違いである。われわれはみな電車の乗り方を知っていて,何の疑問も持たずにそれに乗って目的地に行くけれども,車両がどのようなメカニズムで動いているのか知っている人などほとんどいない。しかし,未開の社会の人間は,自分たちが使っている道具について,われわれよりはるかに知悉している。従って,主知化や合理化は,われわれが生きるうえで自分の生活についての知識を増やしてくれているわけではないのだ。
 医者は手段を尽くして患者の病気を治し,生命を維持することのみに努力を傾ける。たとえその患者が苦痛からの解放を望んでいても,患者の家族もそれを望んでいても,患者が治療代を払えない貧しい人であっても関係ない。すなわち,科学はその行為の究極的,本来的な意味について何も答えない。

人は「自由」から逃げたがる
 近代以前は,人が何を信じ,物事の意味をどう獲得するかという問題は,「信仰」によって覆い隠されていたともいえます。そして,信仰の覆いが外され,「個人」にすべての判断が託されてしまった近代以降,解決しがたい苦しみが始まったといえます。
 宗教などを抜きにして,自分がやっていること,やろうとしていることの意味を自分で考えなさいーー。これは非常にきつい要求です。なにかを選択しようとするたびに,自我と向き合わねばならず,その都度,自分の無知や愚かさ,醜さ,ずるさ,弱さといったものを見せつれられることになります。その点では,逆説的に聞こえるかもしれませんが,「現代人は心を失っている」という言い方は間違いで,前近代の方がよほど心を失っていたのです。

 社会の中での人間同士のつながりは,深い友情関係や恋人関係,家族関係などとは違った面があります。もちろん,社会の中でのつながりも「相互承認」の関係には違いないのですが,この場合は,私は「アテンション(ねぎらいのまなざしを向けること)」というような表現がいちばん近いのではないかと思います。清掃をしていた彼がもらった言葉は,まさにアテンションだったのではないでしょうか。
 ですから,私は「jひとはなぜ働かなければならないのか」という問いの答えは「他者からのアテンション」そして「他者へのアテンション」だと言いたいと思います。それを抜きにして,働くことの意味はありえないと思います。その仕事が彼にとってやり甲斐のあるものなのかとか,彼の夢を実現するものなのかといったことは次の段階の話です。

 大それた事件を起こしてしまった犯人も救われません。しかし,子供を奪われた家族の方はもっと救われません。なぜなら被害者にとって,それは戦争や疫病で命を取られるのと同じような「不条理」であり,なぜ自分の子供が死なねばならなかったのか,その意味を見出すことは絶対にできないからです。いわば,「意味の彼岸」ができてしまうのです。
 精神医学者で思想家のV・E・フランクルは,人は相当の苦悩にも耐える力を持っているが,意味の喪失には耐えられないといった趣旨のことを述べています。
 人は自分の人生に起こる出来事の意味を理解することによって生きています。むろん,いちいちの意味を常に考えているわけではなく,意味を確信しているゆえに理解が無意識化されていることもあります。が,いずれにせよ,それが人にとっての生きる「力」になっています。だから,意味を確信できないと,人は絶望的になります。

 トルストイは,「無限に進化していく文明の中で,人の死は無意味である。死が無意味である以上,生もまた無意味である。」と言いました。人が自然の摂理に即した暮らしをしているときは,有機的な輪廻のようなものの中で,生きるために必要なことはほぼ学んで,人生に満足して死ぬことができます。しかし,絶え間ない発展の途上に生きている人は,そのときにしか価値を持たない一時的なものしか学べず,けっして満足することなく死ぬことになります。だから,確たるものの得られない死は意味のないただの出来事であり,無意味な死しか与えられない生もまた無意味であるーーというのです。

夏目漱石「心」
 先生は妻に,Kとのいきさつのことを最後まで告白しませんでした。そのために妻は満たされないものを抱え続け,結局,彼女を幸せにしてあげることができませんでした。それは妻への愛ゆえでもありましたが,」自分の卑怯さを認めたくないというエゴ,あるいは,事実の秘匿は自らの信念で撰びとった道であるという自尊心ゆえでもあります。こうして,先生の絶対的な孤独は救われることがありませんでした。そして,そんな「自分の城」を守っている限りにおいて,人はだれともつながれないのです。
 しかし,先生は最後に,隠し通してきたことを「私」に洗いざらい告白しました。守ってきた城を「私」に明け渡したのです。その瞬間,先生と「私」との間には,「相互承認」の関係ができたのではないでしょうか。そして,先生が「私」にそれをしたのは,先生が「私」を信じたからです。信じたからさらけ出すことができた。それでも先生は命を絶ちますが,その前に一瞬,自我の孤独から解放されたのではないかという気がします。

一身にして二生を経る
 福沢諭吉は「一身にして二生を経る」という言葉を残しました。私もそれをやってみたい気分になっているのです。自分という一人の人間の中で,二つの人生を生きてみたい。あえて言えば,恐いものがなくて,分別もないのなら,何でもできるのではないかという気分なのです。

 ある秋の新学期,彼はとうとうどうにもならない状態になってしまった。そこで全家族とも三度の食事を二度に減らしたのである。彼の奥さんには,非常に仲のよい日本人キリスト教徒の友人がいた。この友人が彼女に言ったのである。「三度の食事を二度に減らしてまで十分の一税を納める必要はないと思う。余裕のあるときならそれもよいけれども・・・」。だが彼女はきかない。そこでまた日本の友人は忠告した。「どうしても納めなければ気が済まないならそれもよいけれど,それなら,今月のように特別に出費の多い月はやめて,来月二ヶ月分納めたらよいでしょう」と。ユダヤ人の奥さんは言った。「十分の一は私のおかねではなくあのお名(神)のおかねです。私は生まれてから人のものをとったことはない。たとえが死してもとるつもりはない。ましてあのお名(神)のものをとるなど,死んでもできない。」と。日本人の友人は言った「別にとるのではなく,今月やめて,来月二倍にすれば・・・」。ユダヤ人の行くさんは言った。「では,こういうことを考えてください。あなたが銀行員だったとしましょう。いま一銭もなくて,三度の食事を二度に減らしている。ではほんの二,三日,銀行のお金を流用しても,すぐ埋めてしまえば,それでよいと思います?そしてそれをその銀行の支店長の前で平気でやれます?」

 イスラエルの神が,本当にイスラエルを滅ぼすぞ,と言っているのである。なぜこういう言葉が出てきたのか。これは,ユダヤ教の「神・人関係」が,一口で言えば血縁なき「養子縁組」だからである。不思議に思われるであろうが,これは事実なのだ。一体「養子」とは何なのか。契約によって親子になったので,契約が破棄されれば,はっきりと,何の関係もない他人(この場合は他神?)なのだ。旧約聖書に記されているように,「神はイスラエルを選んで自分の民とした」ということは,多くの民の中から選ばれて「養子」にされたことで,養子になるには当然,さまざまの契約があったわけである。この「選び」をユダヤ人の選民思想というが,選民思想という言葉を,エリート意識と誤解してはならない(日本の解説書ではよくこれが混同されている)。一方,旧約聖書には,「イスラエルヤハウェを自分の神とした」とはっきり書かれているが,日本人キリスト教徒はこの言葉を口にしたがらない。これは「養子にされ,養子になった」ということなのだが,おそらく日本人の神概念と,根本的に相容れぬ点があるからであろう。

 「朝鮮戦争は,日米の資本家が(もうけるため)企んだものである」と平気でいう進歩的文化人がいる。ああなんと無神経な人よ。そして世間知らずのお坊ちゃんよ。「日本人自身もそれを認めている」となったら一体どうなるのだ。その言葉が,あなたの子をアウシュヴィッツに送らないとだれが保証してくれよう。
 これに加えて絶対に忘れてはならないことがある。朝鮮人は口を開けば,日本人は朝鮮戦争で今日の繁栄を築いたという。その言葉が事実であろうと,なかろうと,安易に聞き流してはいけない。もちろん私は,必ずしもそれだけが原因とは思わないが,朝鮮人にはそう見えるのである。「われわれが三十八度線で死闘して,日本を守ってやったのに,日本人はそのわれわれの犠牲のうえで,自分だけがぬくぬくともうけやがった」という考え方である。たとえこれが事実であっても,どれは日本の責任ではないし,日本がなにか不当なことをしたのでもない。
 だが,全く同じことを,第一次世界大戦の後に,ドイツのユダヤ人もいわれたのだ。「われわれが西部戦線で死闘していた間,あいつらは銃後にあって,われわれに守られてぬくぬくともうけやがった」。ユダヤ人は確かにそういう位置にいた。そしてその多くは商人であって戦後のインフレにも強かった。しかし戦争を起こしたのはカイゼルとドイツの首脳であってユダヤ人はこれには責任はない。しかし,戦争に際して,ユダヤ人だけがなにか不当なことをしたように言われ,それが次第に拡大され,ついには,もうけるためユダヤ人が戦争を起こしたように非難され,それがアウシュヴィッツにつづくのであるーー。

 ユダヤ人にはないが,もう一つの特異な面を日本はもっている。かつての日本人は,全有色人種のプロテクターをもって自他ともに任じていた。全有色人種を労組のたとえ,白人を経営者にたとえるなら,日本は実に輝かしい闘争委員長であった。
 私の知っているあるパキスタン人は,プリンス・オブ・ウェールズとレパルスが日本海軍航空隊に撃沈されたと聞き,喜びのあまり,徹夜で踊り狂ったという。この感情はあらゆる有色人種にあった。
 だが,あの大闘争に敗れてから二十五年,日本はいつのまにか,白人カルテルの重役になり,OECDに列し,南阿では公然と「名誉白人」になっている。ああ「名誉白人」。かつての労組員の彼に注ぐ目は複雑だ。一方,キリスト教徒・共産主義者白人カルテルも彼に気を許しているわけではない(その「におい」のゆえに)。

パレスチナの争いは民族の争いでも土地の争いでもない
 パレスチナをめぐる争いは,大地主・農奴軍閥・利権・買弁体制と,キブツ・モシャブ・共同組合体制との争いなのである。あらゆる争いは煎じ詰めれば体制の争いで,これがもっとも明白に出ているのがパレスチナである。