「なる」の論理と「する」の論理 

 「日本語は空間の論理が多く,主体の論理が少ない。これに対して,英語は主体の論理が多く,空間の論理が少ない」ということになろう。言い換えれば「日本人は空間の論理を多用し,主体の論理はあまり使わない。これに対して,英米人は主体の論理を多用し,空間の論理をあまり使わない」となる。
 このことに関する事実として,日本人は「なる」の論理を好み,欧米人は「する」の論理を好むことが多くの人によって指摘されている。
 たとえば
 Evening has come
だが,日本語では,
 夕方になった
である。「夕方が来た」とは言わない。「来た」は動作なので,「夕方が来た」は「する」の論理である。「する」の論理は,その基本形が「誰々が何々をする」であることからわかるようにl,主体の論理である。”Evening has come”ではeveningを人に見立てていることになる。
 これに対して,「夕方になった」は「なる」の論理である。「なる」の論理は,その基本形が「何々が何々になる」であり,これは,空間の比喩の中の運動の比喩と見なせる。したがって,「なる」の論理は空間の論理である。日本人が「なる」の論理を好み,欧米人が「する」の論理を好むのは,日本語が空間の論理が多いことと,欧米語が主体の論理が多いことから説明できるであろう。