無我の我

 ここで良寛漢詩を一つ引く。
花無心招蝶
蝶無心尋花
花開時蝶来
蝶来時花開
吾亦不知人
人亦不知吾
不知従帝則

 花は無心で蝶を招き,蝶は無心で花を尋ねる。花が開く時に蝶が来るし,蝶が来る時に花が開く。私は他者を知らぬし,他者も私を知らぬ。互いに知らぬながら,それでいて自然(じねん)の法則に従っている。ーー花が開く時に蝶が来る,他力の本願不思議によってはじめて自力が開ける。蝶が来る時に花が開く,自力を尽くしてはじめて真に他力がわかる。小さな自我を投げ出して,己を空じて,一切のはからいを離れるとき,そこにはじめて「天真自然」に通じる道がある。「捨ててこそ」,それはいわゆる他力宗・自力宗を問わず,宗教の極致である。「自我(エゴ)に死んで自己(セルフ)に生きる」のである。禅者のその徹底としての「任運騰騰」から念仏者の「絶対他力の信」へ(たとえば「妙好人」の生きざま),それはほんの一またぎではないか。「自然法爾」(妙力)こそ,仏教の,いや宗教の真髄である。

私は「無我の我」こそが「仏」だといった。「仏法には<無我>にて候」(蓮如)である。「自我」を空じて無我を実現し得たとき,「法(ダンマ)」が「無我の我=真人=仏陀」が露わになるのである。それを,「自我に死んで自己に生きる」(死んで生きるが禅の道)というのである。