ダンマはどこで露わになるか

 最近,仏教を説く場合に,初期経典に見える,「法(ダンマ)が露わになる」という表現が,よく用いられる。私もまったく賛成で,よく使う。そのばあい「法(ダンマ)」(サンスクリットは「ダルマ」,「ダンマ」はパーリ語)の語で何が意味されるか。これまた初期経典によると,仏陀は死に臨んで,「如来は逝く。これからは君たちは<自>を灯明とし,<法>を灯明とせよ」といわれたという。
 「灯明」と漢訳された語は,また「島」とも解されるという。インドは一州全体が洪水になるほどの土地柄で,そんなとき「島」はいのちの依り所「帰依処)である。「帰依処」とは,“危険の場合の安全な隠れ場所”の意である。
 これからは「<自己>を島とせよ」といわれた仏陀は,すぐに打ち返して,また「<法>を島とせよ」といわれた。すると,仏陀においては「自己」と「法」とは一つであったはずである。「<法>が露わになる」というときにも,その「法」は「自己」でなければならない。私は「本来の自己」を自覚することが,「悟り」の内容だといった。その「自己」は「自我」が「空」じられた「無我」のときのみそこでのみ露わになるのである。それを私は,「<自我(エゴ)>に死んで<自己(セルフ)>に生きる」という。禅者は古来ここを「死んで生きるが禅の道」といった。
 この「死・復活した<自己>」は,「天地と同根,万物と一体」の「無相の自己」である。無相だから,どんな相でも取れる。「ゼロ即無限」である。そこを,また「<空>とは<自他不二>」という。万有と自己とーー我とそれをーー“区別はできる(不可同)が,切り離すことはできない(不可分)”ーーそういう自己である。これを「自他不二」という。「悟り」とは,こういう「物我一如・自他不二」の「無相の自己」(無我の我)の自覚である。
 結論していうーー「法(ダンマ)は,無我(ニル・アートマン)のときにのみ,露わになる」。その時「自」(真人)と「法」(真如)とは不二である。これを「<空>とは<自他不二>」という。「自他不二」だから,汝の痛みが我の痛みに感じられて,「涅槃に住まらず」に,仏は菩薩として,大悲心の故に慈悲行に精進するのである。「悟り」の知恵がそのまま慈悲となって働くのである。
 これは,自己の外に理念(イデー)を立ててその実現に努力する,外に向かって努める理想主義とは逆に,「本来清浄(空)」である自己に取って返して,廻向返照していく修行である。そこに,まず「自我」を認めて,その自我を「大我」に育てていく「有我説」とは,まったく基本構造を異にする「無我説」の宗教の本質がある。仏教者もかつて,「仏陀」を「大我(マハー・アートマン)」と称したことがあるが,誤りである。私は「梵我一如」は,有我説で,結局,私のいう大我説であって,断じて「無我」の仏教ではない,と声を大にして主張するものである。
 それは自我を空ずる無我の教えではなく,自我を高めて大我となす,「有我」説の考え方を取るもので,釈尊のいう「正法」(ダンマ)は「無我」(「空」)のときにのみ露わになるのである。西田哲学はこれを「場所的逆対応」という。