権力のむなしさ

 しかしアンドレイ公爵は,これがどんな結末に終わったか見ることができなかった。彼は近くの兵士のだれかにかたい棍棒でいきなり頭をなぐられたような気がした。痛いこともいくらか痛かったが,それよりも,この痛さに注意をそらされて,見ていたものを見ることを妨げられたのが,不愉快だった。
『これはどうしたのだ? おれは倒れるのか? 足をすくわれたようだ』こう思いながら,彼は仰向けに倒れた。彼は,フランス兵たちと見方の砲兵たちの肉弾戦がどのような結果に終わったか,赤毛の砲兵が刺し殺されたかどうか,砲が奪取されたか,それとも救われたか,みたいと思って目を開けた。しかし彼には何も見えなかった。彼の頭上には,空のほかは,ーー灰色の雲がゆるやかにわたっている,明るくはないが,やはり無限に深い,高い空のほかは,もう何も見えなかった。『なんというしずけさだろう,なんという相違だろう』とアンドレイ公爵は考えた。「俺たちが走ったり,叫んだり,戦ったりしていたときとは,なんという相違だ。フランス兵とロシア砲兵が恐怖と憎悪に顔をゆがめて洗杆の奪い合いをしていたときとは,なんという相違だ,ーーあのときはこの無限に高い空をこんなふうに雲がわたってはいなかった。どうしておれはこれまでこの高い大空に気がつかなかったのか? やっとこの大空に気がついて,おれはなんという幸福だろう。そうだ! この無限の大空のほかは,すべてが空虚だ,すべてが欺瞞だ。この大空以外は,何もない。何ひとつ存在しないのだ。だが,それすらも存在しない,しずけさと平和以外は,何もない,おお,神よ,栄えあれ!・・・・・・』

 アンドレイ公爵は,つい五分ほどまえは彼の担架を運んでいる兵士たちに,わずか数言ではあるが口をきくことができたのに,今はひたとナポレオンの顔に目を注いだまま,黙りこくっていた・・・・・・今の彼には,彼がしっかり目におさめて,そして理解した,あの高い,正しい,美しい大空に比べたら,ナポレオンの心を占めているあらゆる利害が,いかにもむなしいものに思われ,このちっぽけな虚栄心と勝利の喜びに寄っている彼の憧れの英雄自身も,いかにも小さな人間に思われた,ーーそのために彼は返事をすることができなかったのである。
 それに,血が失われたための衰弱と,苦痛と,目前の死を待つ心が,彼の内部に目覚めさせたあの荘厳な思想に比べたら,すべてがあまりにも無益で,無価値なものに思われた。ナポレオンの目を見つめながら,アンドレイ公爵は権力のむなしさ,誰もその意義を理解しえなかった人生のむなしさ,そしてさらに生者のだれもその意義を,理解も解明もなしえなかった死の大きなむなしさを,考えていた。