死なないでいる理由

 とくにお年寄りを見ていると,他人を歓ばせることで自分も歓ぶと言うことが,自分ひとりが気持ちよくなる以上に,楽しいことだとわかる。「自立」と言うことを考えるときに,こういう視点を持つことは重要だと思う。「自立」は他人の力を借りずに,ひとりで生きられるということではない。たとえ社会的サービスが充実していても,実際に動いてくれるのは機械ではなく他人だ。人間がひとりでできることはきわめて限られていて,食堂で何かを食べるときには,調理する人,配膳する人が要るし,音楽に浸りたいときには,曲を作る人,演奏する人,録音する人,CDを売る人が要る。体が不自由になったら,介助をしてくれる人がいる。人間はそういう無数の他者に支えられて生きているのであって,ひとりでできることなどたかがしれている。
 とすれば「自立」とは,他人から独立していること(インディペンデンス)ではなく,他人との相互依存(インターディペンデンス)のネットワークをうまく使いこなせるということをこそ意味するはずだ。困ったときに「助けてくれ」と声を上げれば,それにきちんと応えてくれる支え合いのネットワークの中にあるということこそ「自立」であり,そのネットワークを支える活動が「自立支援」であるはずだ。
 独力で生きるのではなく支え合って生きる・・・・・・。そのように他人と共に生きることが本当の「自立」であるとすれば,そのためには自分も時に支える側に回る準備ができているのでなければならない。

 さらにさかのぼって,出産の場面。死亡と同じで人の誕生も,家で産婆さんにとりあげてもらうということがなくなった。わたしたちは,家で母親のうめき声を聞くことも,赤子の噴き出すような泣き声を聞くこともなくなった。ひとの誕生がどういう事態なのかをじかに知覚することはめったにない。
 念を押すようであるが,さらにもうひとつ事例を加えれば,生命活動にとって最も重大な意味をもつ栄養摂取の前提となる調理の過程と排泄物処理の過程,これもシステマティックにわたしたちの眼から遠ざけられている。
 排泄物の処理からいえば,かつて排泄が野外や共同便所でなされ,汲み取りもわたしたちの面前でなされていたのに,下水道の完備とともに排泄物処理が見えない過程になった。次に食品はスーパーやコンビニに行くとすでに加工され調理されて,あとはチンするか湯で温めるだけでいいレトルト食品として売られている。肉や魚などの食材はきれいに切りそろえられてパックに入れて売られており,わざわざ自分で生き物を殺し,捌く必要はなくなっている。排泄物の処理も,水に流されたあとどういう経路でどこでどう処理されるのか。わたしたちの想像力はうまく働かない。
 要するにわたしたちの社会では,生きるうえでもっとも基本的な出来事がもっとも見えにくい仕組みになっている。食材となる生き物の死体処理,食材の輸入調達,女性の出産,人の死と屍体の処理などの場面が視野から外されている。

 そんな中で,家族や施設のスタッフにかける負担を考えると,「可愛いおじいちゃん・おばあちゃん」という,この社会の現役メンバーに受け入れられる役柄を演じるしかない。「いじわるばあさん」が活躍する余地はこの社会にはもうない。老いは(ひとりひとり別の人生を歩んできたがゆえに)ひとがますます多様になっていく過程であるのに(性的な嗜好やコンプレックスはとくにそうだ),「愛らしいお年寄り」か「惨めで痛々しい高齢者」かというふうに,<老い>のイメージはますます薄っぺらになっている。

 成熟ということをわたしたちの社会は,さまざまなことを自分でできること,(自分の身体もふくめて)生きるのに必要な多くのものを意のままにできることとして了解してきた。が,何かを意のままにできるということが<いのち>の成熟なのではない。そうではなくて,意のままにならないということの受容,そういう「不自由」の経験をおのれのうちに深く湛えつつ,何かを意のままにするという脅迫から下りることを自然に受け入れるようになるのが,<いのち>の成熟であろう。その意味では,<老い>とは,他なるものの受容の折り重なりとして現象するといえる。そういうまなざしを遠ざけ,<老い>をむしろ衰退や退行とみるところに<老い>のかたちは現れてこようがない。

 わたしはこの患者さんにいったい何ができただろうか・・・・・・と,自分を振り返ることはもちろん大事ではある。しかしケアをすぐに何かを「してあげる」ことと考えることには,ちょっとした落とし穴がある。そのことで患者さんは反対に,いつも何かを「してもらう」ひととして自分を意識せざるをえなくなるからだ。そのことで患者さんの生きようという力を削いでしまう面が,ケアするひとのそういう意識の中にはあるのである。その意味で,患者さんに心配をかけることが結果としてケアになるということは往々にしてあるのだ。

 人間が食べるもの,それは塩や水を除いては,みないのちあるものだ。肉,魚,虫,穀物,野菜,果物。どれもこれも生き物だ。食べるためには,ときにそれらをしとめ,焼いたり煮たりしなければならないし,土岐にそれらを引き抜いたり引きちぎったりしなければならない。そして口に入れ,噛み砕いて,呑み込む。ひとはそのように,他の生き物を殺すことでしか生き続けられない。それも一日に何度も。
 ひとは自分が生きるために他の生命をくりかえし破壊しているということ。そのとき他の生命は渾身の力をふりしぼって抗うということ。ひとはその生存のために一つの作業を分かちあい,支えあうものであること。じぶんという存在がまぎれもない物そのものであり,生まれもすれば壊れもする,消滅もするということ・・・・・・。そういうことのからだごとの体験がことごとく削除されている。
 このようにわたしたちの社会は,他のいのちを奪うことで自らの命をつなぐという,この生の残酷な事実を隠してきた。が,このことによってじつはもっと重要なものを隠し,棚上げにしてきたということはないだろうか。そのことを次に考えてみたい。

 「わたしのいのち」という言い方をひとはよくする。この言い回しの意味するところはなかなかむずかしい。「わたしのいのち」というからには,わたしの服,わたしの鞄,わたしの鉛筆といったふうに,自分の持ち物,つまりは自分の所有物を考えるかもしれない。けれども服や鞄や鉛筆のように,いのちは誰かのそれと取り換えることができない。なくしたらまた別のいのちを買うというようなことはできない。とすれば,いのちとはそれがないとわたしが生きていけないものといいかえられるだろうか。わたしに不可欠のもの,つまりわたしにとっていちばん重要な事物もしくは対象だといえるだろうか。これもまだ不正確だ。なぜなら,「いのち」は「わたし」と別物ではないからである。「わたしのいのち」という言葉を口にしているこのわたしそのものが,いのちの一つの現実であるからだ。その意味では,「わたしのいのち」とは生きているこのわたしの存在そのもののことだといいたくなる。けれども,そのいのちについて,わたしはほとんど知るところがない。体の内部がどうなっているかを知らないし,いつ病気になるか,いつこの生が終わるのかも自分ではわからない。いのちを養うということ,つまり食べるということも,勝手に食欲が生まれるのであって,わたしがコントロールしているわけではない。眠りたいと思ってもすぐに眠れるわけではないし,また「わたし」が眠っている間もわたしの中でいのちは騒がしいくらいにざわざわと活動している。いのちはその意味でわたしそのものであるには違いないが,わたしが理解しきれるものではないし,またわたしの思いどおりになるものでもない。いのちとはだから,自分がそれでありながら,自分ではどうしようも操作できないものというくらいにしか,まずはいいようのないものだ。が,それがなくてはわたしがないということ,このことは確実だ。
 だからひとは,このいのちはわたしのものだとはっきり主張する。そう主張してゆずらない。このいのちを攻撃されたり,ないがしろにされたりするのは,わたしが攻撃され,ないがしろにされることに等しいからである。このいのちをどのように取り扱うかについては,それはわたし自身のことなのだから,当然わたしが決める。これがわたしたちの自由というものである。個人が自由であるとは,個人がその存在,その行動のあり方をみずからの意志で決定できる状態にあるということだ。わたしの身体もわたしのいのちもほかならぬこのわたしのものであって,この身体を本人の同意なしに他から傷つけられたり,その活動を強制されたりすることがあってはならない。
 けれども,だからといって,いのちはそういう意味でわたしの所有物であるのではない。ひとは自分のいのちを自分で創りだしたわけではないし,自分のいのちを自分で閉じることもできない。だれしも他人の庇護のもとで育つ。他人にあれやこれやの世話を享けながら老いる。身体やいのちを,さらに広く「身」とか「身柄」というふうにとれば,家族生活を営むひと,いろいろな団体の公的な立場にいる人にとっては,自分の身体を自分だけのものだと感じることの方がむしろまれだろう。
 いのちは自分だけのものではないということ,そのことは,食や性,育児や介護の場面ひとつとってもすぐにわかる。いのちはいつも,他の身体との交わりややりとりの中にあるのであって,いのちの保ち方,いのちの行く末は,そのいのちにさまざまなかたちで与っているひとのものでもあるのだ。だれかが死ぬということは,その人のいのちだけに起こる出来事なのではない。そのひとに死なれたひとびとにとってもそれは重大な出来事なのだ。個人のその身体が死体となったとき,そのいのちを共に生きた者がそのいのちを亡きものとして認める,そういう行為をもってやっとひとつの命は絶える。「死とともに死者が誕生する」と言った人がいるが,その意味もそういうところにある。

 あらためていうまでもなく,幸福への願望,快への志向それじたいは,裏返してみれば,現在のある悲惨,ある不満足のしるしである。とすれば,幸福論がはやる時代は不幸な時代なのかもしれない。「幸福とは何か」と問われて「幸福について考えないでいられること」と答えるのは悪い冗談かもしれないが,それにも一理はあるのである。