算数ができることがそんなに大事なことなのか

 変わらなければならないのは,教える側である私たちかもしれない。
 「算数ができないよりできるほうがいい。」そんなことは自明の理である。
 「できない子はできるように努力しなければならない。」それは当たり前である。「できるようにならないのは努力が足りないか,その方法が間違っているのである。」つまり,教える側から言えば,「指導法さえ変えればできない子ができるようになり,幸せになるはずである。」ということになる。
 しかし,そもそもその提言が正しいのかどうか。
 世の中はわれわれ教師が「温故」に浸っている間にずんずん変わっている。今,NHKテレビクローズアップ現代で「地頭力」という言葉をテーマに放映していた。入社試験に「ドラえもんのポケットが合ったらどうするか?」とか,「富士山を動かすにはどうすればいいか?」とか,「5大陸をひとつなくすとすれば,どの大陸にするか?」といった問題が出たそうだ。
 「算数ができるってことは,そんなに大事なことなんですか?」
 「その後の人生を左右し,決定するほど大切なことなんですか?」
 多少「左右」するかもしれないけれども,「決定」はしないでしょう。たかが,算数のごときで。
 小学校のときに算数のできた子も,できなかった子も,もちろん普通だった子も"みんな"大きくなれば結婚し,子供を子さえ,立派に社会人として生活しているじゃないですか。
 私は"教える側の人間として"算数のできない子には,こう言ってやりたい。
「算数なんてできなっくったって平気だよ。大きくなれば算数なんていらないし,あなたの持ってる輝く能力発揮する場面がきっとあるよ。」
「算数ができるようにならないと・・・,なんて,"先生"の立場は必要としているだけのことなんだよ。」
「"先生"にとってはそのほうが,一元的に管理できて,便利だからね。」
 もう一度言います。算数なんてできなくっていいんですよ。できない子はできないままで幸せになる道を探しましょう。できない子にできるようになりなさい,なんて酷なことは要求しないようにしましょう。
 できない子にきめ細かなアプローチをすれば,できない子ができるようになると単純に思っている,そういう人が結構多いんですよ,「善意の教育者」には。でも,それはちょっと考えれば間違っているとわかることでしょう。努力すれば誰もが浅田真央になれる,なんて誰も思わない。あなたが松井秀樹になれなかったのは,あなたが努力しなかったからですか?
 そこのところが気持ちよく否定できないのは,"教育者"がたいていの場合”善意の人"だからだと思います。善意から行動し,何事も前向きの姿勢でする。他人からは非難しにくい人たちが"教育者"と呼ばれる人たちであることがほとんどなんですね。だから,「先生,あなたたちは間違っていますよ。」とは,誰もいえないんです。
 でも,私はあえて言います。
 「変わらなければならないのは,私たち"教える側"です。」